新年あけまして、おめでとうございます!
この言葉を言うことに抵抗がないわけではないけど、
普通に生きたいから、やっぱりこうして精一杯生きて新年を迎えることには感謝したいし、新しい年を祝いたいから、やっぱりおめでとうって言いたいです。
自死遺族だからって、何か負い目を感じる必要なんてないはず・・・
自責の念は消えないけど、生きることに苦しさを感じるときもあるけど、
でもやっぱり、私は前を向いて歩いていきたい。
自死遺族だけど、私は私!
私なりに頑張りたい!!!
自死遺族だからこその問題はあるけど、日常生活はできるだけ普通に暮らしたい。
私は、夫の分も精一杯生きるのだから。
昨年を振り返ってみて思うことー
まずは、自殺と自死という言葉について。
自殺や自死という言葉について、いろんな意見があることを知った。
どの意見も間違いだとは思わない。
その人がその人なりに一生懸命考えて出した意見や結論なら、尊重したい。
大切なのは、自死について理解が深まり、みんなが自死の防止について一生懸命考えることなんだから、個人の結論はそれぞれで構わない。
ただ、行政には言いたい。「あえて、自殺という言葉を使う必要がありますか?」
自殺という言葉は認知度が高く、自死という言葉は認知度が低いことは百も承知。
だからといって、自死の防止活動に、あえて自殺という言葉を使わなければならない必要があるのだろうか。
そもそも、「自死=追い込まれた末の死」ということが本当に分かっているのだろうか。
自死の防止活動には、安易なスローガンなどほとんど役に立たない。
自死の防止活動に大切なことは、自死する人が生きたいのに死ななければならないような状況に追い込まれていることを理解し、その状況を取り除くこと、できれば、そのような状況を作り出さないこと!
過労やいじめによる自死などは、まさにその人を取り巻く状況に問題がある。
その状況を作り出さないようにすることが本当は大切なのである。
なぜ自死は起こるのか、
そこを正しく理解することから始めてほしい。
また、自殺という言葉には、「自殺は弱い人がするものだ」「自殺は個人の問題だ」という間違った理解が伴っていることが多い。
そう考えると、自死の正しい理解と支援を得るために、認知度が高いというだけで自殺という言葉が必要な理由などないはず。
むしろ、自死という言葉に置き換えることを契機として、自死に対する正しい理解を広めていってほしいと思う。
なお、自死という言葉に置き換えたら、自死しやすくなるのではないかというが、これは大きな誤解だと私は思う。
自死はそんな簡単な状況では起こらない。
自死する人は生きたいのに自死してしまうほど、追い込まれているのだ。
切羽詰まった状況なのだ。
家族や友人たちの生きてほしいという願いさえも届かないのに、そんな「自殺」という言葉の置き換えで変わるようなものではないはず。
私は、根拠のない意見だと思っている。
そして、何よりも自死遺族に対する配慮を考えれば、行政は自死という言葉を使うべきだと思う。
なぜなら、人に対する配慮が満ち溢れた社会であれば、
自死する人を追い込む状況は起こらないのだから、自死の防止活動に携わる行政は、人に対する配慮を大切にすべきだと考えるからだ。
そして、行政による自死の防止活動も、もう死ぬしかないと思っている人の救出だけではなく、そもそもそんな人を作り出さないようにする方法や対策も考えるべきだと思う。
人権教育の推進、そして労働環境や学校環境の改善なども考えてもらいたい。
と、この一年いろいろ考えてきたことを書き連ねてみました。
「自死を語れる社会に」という私の願いは、まずは、自死に対する正しい理解を深めることから始めなくてはならないようです。
私は、自死遺族であると同時に、基本的人権を尊重し擁護する弁護士でもあるのだから、本業に励みつつ、自死遺族に対する支援活動や自死の防止活動も頑張るつもりです!
どうか今年もよろしくお願いいたします。